廣太郎は小石川植物園(理科大学入学)で研究を開始し、助手、講師を歴任し長く生物学(植物学/ 細菌学)研究に携わりました。
その間には、平瀬作五郎によるイチョウの精子の発見など重要な出来事もあり、
ここは、日本の植物や植生を解明し研究開発を推進する場所として機能していました。
それは標本によるデータベース化や機器を使った顕微解剖実験、栽培実験による探求など、
まさに「文化」が構築されていく「最先端の場所」であったといえます。
INTRO
この言葉は、1955年、60年前にOCHABI の建学の精神として掲げられた言葉です。
服部廣太郎は、この言葉にどのような思いを込めたのか、
「OCHABIの原点」は何だったのか、
彼が残した文献、論文、写真などから紐解きます。
現在OCHABI 2号館校舎が立っている場所にあった書斎での服部廣太郎。
この書斎は、のちに本科(御茶の水美術専門学校の前身)のアトリエとして開放される。
書斎があった場所に建てられた
昭和40年代のOCHABI 2号館。
CHAPTER.1
服部廣太郎は、旧制第一高等学校卒業後、
1896年(明治29)帝国大学理科大学植物学科に入学し生物学、植物学(分類学)を専攻した。
後の1901年(明治34)には、東京帝国大学理科大学助手となり、小笠原の植物や水道生物に関しての研究を行った。
帝国大学理科大学植物学科は現在小石川植物園として一般に開放されている。
帝国大学理科大学植物学科(現小石川植物園)後列右から3番目が服部廣太郎
江戸から明治にかけ、日本の生物学(植物学)は
「本草学」の成果が下地となり科学的見地を踏まえ還元され、
体系立てられていきました。
それは、「印象を捉える観察」から、実験や解剖を踏まえた
「科学としての観察」へと発展したのです。
水谷豊文 画
1823年(文政6)草木性譜より
草木性譜は、尾張の本草家や画家が参加した図説。
水谷豊文は、江戸時代後期の本草家。
豊文禽譜は、伊藤篤太郎(植物学者)が、祖父の伊藤圭介(水谷豊文から本草学を学んだ植物学者)が残した水谷豊文の自筆原稿をまとめたもの。伊藤篤太郎も伊藤圭介も小石川植物園に関わりを持つ。水谷豊文、伊藤圭介、伊藤篤太郎そして廣太郎の服部家は、みな尾張出身で、廣太郎の学びに何らかの影響があったことが推察される。
三好學編
廣太郎は三好學から生物学(植物学)を学んだ。
明治期には顕微鏡による解剖観察などの導入で多面的な観察が行われるようになった。
この著書は三好の桜の研究をビジュアルにまとめたものだが、
図版は佐藤醇吉と西野猪久馬による。
東京帝国大学理科大学をはじめ、
生物学研究の分野では、
図版制作のための画工が雇われていて、
佐藤醇吉は、廣太郎による「那須産変形菌類図説」の
図版制作にも関わっている。
CHAPTER.2
現在の小石川植物園(2015.10.2)
小石川植物園柴田記念館に残る一枚の写真
植物の分類体系である新エングラー体系の基礎を完成させた
ハインリヒ・グスタフ・アドルフ・エングラー
(Heinrich Gustav Adolf Engler)を中心に、
小石川植物園初代園長松村任三など日本の生物学(植物学)の
基礎を作った人々が映っている。この時の廣太郎は
東京帝国大学理科大学第二講座(植物生理学/細菌学)講師。
廣太郎は小石川植物園(理科大学入学)で研究を開始し、助手、講師を歴任し長く生物学(植物学/ 細菌学)研究に携わりました。
その間には、平瀬作五郎によるイチョウの精子の発見など重要な出来事もあり、
ここは、日本の植物や植生を解明し研究開発を推進する場所として機能していました。
それは標本によるデータベース化や機器を使った顕微解剖実験、栽培実験による探求など、
まさに「文化」が構築されていく「最先端の場所」であったといえます。
このホシガタケイソウの図は、おそらく日本における最初の珪藻の記述であると言われている。
1899年(明治32)10月23日の日付。
1902年(明治35)
新撰日本植物図説 : 下等隠花類部 松村任三、三好學 編
これは、廣太郎が1908年(明治41)に
発表した論文に掲載された、小笠原の写真。
廣太郎は、松村任三の指導のもと小笠原での
植物採取などを入学してまもなくから行っていた。
Pflanzengeographische Studien über die Bonin- Inseln.
VOL. XXIII, ARTICLE 10.
CHAPTER.3
とにかくこの学問は実験科学の1つであるから、その研究方法としては、事実を先にし、これに即して理論に立ち入るのが常道である。
勿論理論から事実を導き出す場合もあるが、常道としては飽くまで事実を土台とすべきである。
故に研究の対象となる生物にいろいろと起こり得る、また現に起こりつつある変化の因果関係、
即ち生活現象というものの過程を追求したり、その変化を予想し仮定したりしていろいろと条件を提案し、
実験上からこれを糺して行くことが最も肝要なのである。
つまりこの学問では実験上の証明が最も重んぜられるのであって、空理空論に走ることは努めて避けなければならないのである。
(科学朝日 1946 年(昭和21)10 月 P.12 研究室の陛下 服部廣太郎)
私は初めからこう信じていた。自然科学というものの道筋は、
事実に即してそれから理論に入るのが本道である。
そのためにはどうしても現物に接触しなくてはならん。
現物に接触するには、われわれのほうの部門でいえば動植物を採取しなければならん。
そして自分で観察しなければならん。
(科学朝日 1948年(昭和23)生物学御研究室の天皇 服部廣太郎)
先行後言とは、文中の「事実に即してそれから理論に入るのが本道である」と同義で、まず動く、そして観ること、先に行うことが正しい道であり、事実を観ない口先の理論、意味のない議論を戒めています。
多数の人が常に無心に見て、何の興味をも感じない一片の木の葉、
其木の葉の一生は如何なるものかを研究すれば、
ここにも造化の妙機が窺はれるのである。
廣太郎は、何気ないようなものであっても、じっくりと観察をしてみれば、
世界そのものの成り立ちに触れ、驚くことがあると、
科学的な視点の重要性を説いています。
(家庭必読通俗科学 婦人叢書 ; 第1編 1908年(明41.6)P 88)
(家庭必読通俗科学 婦人叢書 ; 第1編 1908年(明41)P 96 服部 廣太郎)
これは、廣太郎が一般向けの科学雑誌で「秋の木の葉」と題し、植物学を分かりやすく解いた文の末尾を抜き出したもので、「委細に玩味」とは、細やかに観察して成り立ちを深く味わうという意味です。
「ちぐさ」=千の色の引句と「無限の意味」を合わせて読めば、OCHABIのロゴコンセプト、十人十色に繋がる観点があります。
CHAPTER.4
服部廣太郎編
廣太郎は、宮内省生物学御用掛として昭和天皇との研究の成果を、1935年に「那須産変形菌類図説」として自費出版しました。
ここには、図の作成に関わった佐藤醇吉について、「画伯」との敬称で紹介しています。
“本書に載せたる、図版と挿絵との中にて、第一図版は、G.LISTER 女史が特に自ら描きて寄贈せられたもので、
其他は悉く佐藤醇吉画伯を煩して、一々写生したものである。”
廣太郎の科学的な目と芸術を結びつける最初の出来事は、帝国大学や、宮内省生物学御研究所における「画工」との関わりでした。
画工の存在は、日本の科学的発展に芸術が大きく寄与していた証拠であり、そしてその一つの形が佐藤醇吉との仕事、
那須産変形菌類図説だったのです。廣太郎は、芸術の重要性を認識していました。
松岡寿の画塾で学び、東京美術学校西洋画科に入学、1900 年(明治33)に卒業。
1902年(明治35)から6 年間、東京帝国大学理学部植物学科に雇員として勤めました。
1928年(昭和3)からは宮内省生物学御研究所に嘱託として勤め、植物写生などに従事。
廣太郎は、帝国大学の助手、講師を歴任した後、1925年(大正14)に宮内省生物学御研究所創設に関わり設計を担当、主任となりました。
佐藤醇吉との深い関わりが窺えます。
那須産変形菌類図説を出版した1935年の前後3年間に東京美術学校校長を務めることとなる洋画家和田英作と共作で作られた図譜。
全10冊の中には、洋画家松岡寿と植物学者三好學が文を寄せていて、科学と芸術のつながりを強く感じることのできる重要な図集です。
1920年(大正9)和田英作、佐藤醇吉 著
CHAPTER.5
廣太郎と徳川黎明会の関係については、“大正12年(1922)から昭和17年(1942)まで、約20年間、
当時の公爵徳川義親氏の委嘱により、徳川生物学研究所を管理し、その所長として服務。
昭和17年研究所が陸軍に接収と同時に辞任”との記述があります。
(妹尾秀実・「飼育と採取」1957 年(昭和32)1月第19巻 第1号 P12)
廣太郎は徳川生物学研究所の所長と共にその母体となる徳川黎明会の役員として名を連ねていました。
徳川黎明会は、廣太郎を所長とした生物学研究所を強力に推進するとともに、
尾張徳川家が残した貴重な、国宝を含む日本の文化財の数々を保存、修復、複製、美術館展示などを積極的に行い、
科学と美術の両輪で事業を展開する財団でした。
廣太郎が徳川黎明会で経験したことは、OCHABIを始める切っ掛けの1つであったといえます。
黎明会所蔵の国宝源氏物語絵巻の複製画
財団設立時の徳川黎明会の趣意書及寄付行為。
廣太郎の名前は左端から2番目。
OCHABI が創立する頃の日本は、戦争の混乱から復興へと転換し、モノの豊かさを学ぶことに夢中でした。
その流れの中で廣太郎は「文化」の大切さを思っていました。
永きに亘り科学研究に従事した廣太郎が、復興に「科学で貢献する」ことは十分に可能であったのですが、
そうではなく「文化で貢献」することの重要性を提起したのです。
廣太郎は、「観察」が「科学」とともに「芸術」をも生みだし、分け隔てることができないことを、自身の体験で知っていました。
だからこそ、これからの日本には、科学が重要であることは当然として、
「科学と芸術」が互いに発展していく「文化」の構築が最も重要であるとの思いがあったのです。
そして「文化」には、科学だけではなく芸術の発展が必要である、これは生物学者ならではの答えでした。
「文化で貢献する」美術学校、この答えは、ただひとりの思いに留まりませんでした。
科学者、芸術家、文化人、財界人など多くの賛同者が集まったのです。
廣太郎は、私邸を提供し、理念への共感が広がり、学校の創立につながったのです。
共感がなければ美術学校をゼロから始めることは不可能でした。
そして廣太郎の提起は、社会の要請とも合致し、永きに亘ってOCHABI に多くの人を集めることとなったのです。
「世界に文化で貢献する」を建学の精神として1955年にOCHABI が誕生します。
聖橋からOCHABI を望む風景。外堀通りに都電が走っています。
EPILOGUE
服部廣太郎の足跡を追い、建学の精神の根幹に触れ、気づいたことがあります。生物学者服部廣太郎博士によりはじめられたこの学校の中で60年間言い続けられてきた、ありふれた言葉があることを。それはOCHABIそのものを表す言葉でもあり、OCHABIの学生に対しての言葉、職員、講師に向けられた言葉でもあります。
生物学者がはじめた美術学校の原初には、この言葉があったのだろうとの強い思いが今ここにあります。それが60年間OCHABIの教育の根幹として言い続けられてきたことは、想像に難くない確信があります。だからこそ、この言葉「よく観ましょう」を創立者服部廣太郎のこれからの言葉として、OCHABIは、引き継いでいきます。
私たちは、世界を知っているようですが自分の目では、あまり見ていません。
習慣の中でパターン化された認識や、ウェブ上の情報の中で、「事実としての世界」より、自分が「イメージした世界」に生きています。
ですから人は、思い込みや固定観念に陥りやすいのです。しかし五感を総動員して、注意深く見れば、今までバラバラで、
関係なさそうだと思っていたことがつながり、未だかつて無かったモノやコトをイメージすることができます。
そして「変えるべき現実の世界」を「新たにイメージする世界」として提示することにより、「現実の世界」に変えていくことができます。
社会に「決まった正解」は、ありませんが、それぞれの「問題に対応した答え」があります。
それをビジュアルに示せる人材が、これからさらに必要となり、活躍していかなければなりません。
OCHABI は創立以来60 年間、一貫して建学の精神「世界に文化で貢献する」を実践し、
ゼロから発想し、高い視点で問題を解決していくクリエーターを、多数世に送り出してきました。
絵を描ける者が、次の時代を創るリーダーになります。それは絵を「上手」「下手」の価値観に閉じ込めず、
「観えたこと」「考えたこと」を描ける人です。
OCHABI は、その環境を創り続けます。そして新たな時代を描いていきます。
学校法人服部学園 理事長 服部浩美